歴史を学ぶように中医学を学ぼう
関西中医鍼灸研究会 藤井 正道『結(ゆい)針灸院』

TAO連載の臨床家対談「中医学の育て方」を読み、98年9月に執筆した関西中医針灸研究会の「中医研通信」98年10月号の原稿に加筆修正したものです。専門誌 TAO鍼灸療法に掲載しました。

しっかり応用するために
春 夏 長夏 秋 冬
木 火 土 金 水 以上が中医学の季節を木 火 土 金 水にあてはめたものだが、中国の河南省洛陽西安中心に大陸性気候で適応しても、日本の大阪にはとても適応できない。
北京では暑い夏のあと、乾いた強風のふく秋がくるが、大阪は台風の風はふくものの、乾燥する時期は少ない。夏は湿度高く、暑いが同時に寒い。冷房である。

98年、秋にむかう時期、春のような症状が多いことを臨床家のみなさんは気づかれただろうか。
頚部のこり、痛み 五十肩のような肩の痛み 眠気あるいは不眠 春先のような鼻炎 脈証がやや弦にかたむくなど。
いわゆる夏バテからの気虚 がある。秋にむかうなかでの陰虚もある。気候としての燥は少なくても、冬にむけて収斂していく中で陰が求められると考えられる。夏バテからの気虚、秋にむかうなかでの陰虚と考えていくと気陰両虚の進行といえる面もある。
しかし別の角度から考えると寒がゆるむことで、陽気がうごきはじめる、ちょうど春のように温度変化がおこっているとも考えられる。こちらの方が主要な矛盾といえないだろうか。
この主要な矛盾の原因は冷房が切られ始めたためだ。気陰両虚だけでは痛みはでにくいし、少陽経に病変がおこっていることが多いことを考え合わせると、身体が春と錯覚を始めたといえないだろうか。そう考えれば少陽経を多用する春の治療で対処していけばいい。継続的治療をおこなっている患者の場合、いままで使っていた治療穴に少陽経の経穴を加えるのもひとつの方法だろう。

黄帝内経素問より

春は春陽上昇とともに潜む気発散し 略 自由に生長を促進すべきで抑制減殺してはならない 略 肝に
損傷きたして
夏は万物が成長して 天地陰陽の両気が盛んに交合し万物に花咲かせ実らせる 略 人体にあっても内
の陽気を皮膚を通じて外に宣通放散させる 略 心気に損傷をきたして
秋は万物が成熟して結実し 地気は粛清にして物みな色彩鮮明 士気はつとめて平静を保ち、秋日の草
木を枯れ死させる粛殺の気が 人体に悪影響しないように 略 肺気を清浄に保つ
冬は万物が戸をとざして陽気を潜伏させる 以上

私がよく使う治療法
これから書くことは、石川家明氏が第一次医療という領域の話だ。難しい病気でなくよくある病気にいかに効果的に対処するかという話として理解していただきたい。
99年4月に関西中医学研究会で特別講義をお願いした、横浜の石川家明氏は下図のように整理された。私はこの分類に基本的に賛成する。

【日本型中医学の位置づけの問題】
――――――――――――――――――――――――――――――――――
一次医療 二次医療 三次医療 末期医療
東洋医学 ←―――――――――――――――――――→西洋医学
プライマリケア
環境、食べ物
セルフケア
土着的←――――――――――――――――――→普遍的
――――――――――――――――――――――――――――――――――
特徴的な治療法としては、督脈上に何点かとり、灸頭針をしたり棒灸をしたりして、陽気をめぐらせる治療法、督脉の温通法と名づけた邵家の家伝のやり方を私もよく使う(TAO鍼灸療法によく執筆している邵輝中医師は関西中医針灸研究会の講師だ。邵輝中医師は「おばあちゃんはこうやっていた」といいながら家伝のやり方をいろいろと紹介してくれる)

私の場合、夏の治療は督脉を通陽、あるいは補陽し、とくに冷房の寒に対処するため大椎を多用する。
これは公式的だが、冷食に対処するため神闕への灸を多用、陽明胃経を温陽することを基本とする。また肺経を調整する。暑さと冷房との温度差、陰陽の気の失調、水湿停滞のため気虚なりやすいし、冷房の寒は肺を直撃するからだ。さらに暑湿に対しある程度太陽膀胱経を使うなどすることが多い。

秋はどうするか。陽明胃経の温陽は冷食がへるため、必要度がへる。かわって少陽経を調整しながら対処する。寒がゆるむことで、陽気がうごきはじめるが、夏の後のため気虚多く、気虚兼気滞 気陰両虚兼気滞の場合が多い。教科書的には秋は補陰だが陰虚のみはまずいない。たまにいても陰虚のみはまず鍼灸院にはこない。痛みがでにくいし、一般に陰虚だけでは自分を病気と思わない場合が多い。例えば手のひらや足の裏がほてっても、眠りにくくても即、鍼灸院へ足を運ぶという人は少ないだろう。
督脉の温通法は、秋も使用可能だが、肝鬱化熱や陰虚熱の程度をみながら加減する。少陽経を使えば熱とれるから、やはり少陽経の使用頻度は増える。補陰して熱をおさえるやり方もあるが、陰液をふやす治療は湿もまたよびやすいことに注意が必要だ。ただし、やはり秋は収斂の季節だから、加減しながら補陰の経穴も使うことになる。やはり化熱することもある。咽頭炎や肺熱がらみの喘息といった病気もよくみられる。
虚熱を下に誘導するには、湧泉の棒灸が使いやすい。いくらか腎陰腎陽も補えるし、下肢の湿の出口にもなる(関西中医針灸研究会では、邵家の家伝のやり方、「下肢の湿をとるにはどこかに、湿の出口をつくる必要がある」というテーゼを採用している)湿は下肢にたまり、患者は冷感を訴えることがおおいが、この対策にもなる。受けていても気持ちもいい。
太陽膀胱経は湿の問題が夏より減るため、頻度はへるだろう。
肺経については、乾燥は少なくても、台風の風もあるし、今の時期は特に朝夕の温度変化も激しいし、これからは気温が低下し肺気を損傷しやすくなるからやはり使うことになるだろう。

中医学の大阪的応用
中国そのままの配穴は大阪では使いにくいし、季節の特徴もひとひねりする必要がある。
では中医学は日本にあわないのだろうか。それは違う。

歴史上の人物の著作をその特有の社会的条件の中から読み込む必要があるように、中医学も読み込めばいい。中医学の著作も地理的歴史的、当時の生活的条件を読み込んで、学ぶ必要がある(といっても学究派でない私はあまり読んでいないが)自分の頭で演繹し考える訓練が必要だろう。中医の基礎理論を用い、縦横無尽に弁証していけばいい。ただ中医の基礎理論といっても、人民中国成立以降、統一教科書をつくるなかで、とりあえずの共通点といった形でつくられた経過も頭のすみに置いておいた方がいいだろう。

病気ごとの配穴は中国のものをそのままは使えないが、経絡ごとの性質、経穴の穴性などはほぼ不変だからそれを使える。では過去の日本の治療家のものはそのまま使えるのか、やはり日本では生活条件社会的状況とともに人の体も急激に変化しているため、そのままはむずかしいだろう。私たちは過去の偉い先生を神様のように美化しがちだが、治す患者が変化しているという科学的事実を常に想起すべきである。例えば昭和初期に定型化された「経絡治療」はどうだろう。昭和初期という時期のもつ歴史的条件を考えながら、再評価していく作業が必要だろう。過去の日本の治療家のものは弁証がないため、追試しにくさもある。ただ過去の業績が財産であることは事実で、私たちは日本の過去の鍼灸を中医学の視点から再評価していく作業も、いずれは必要となるであろう。中医学の神髄はハードではなくソフトにある。

学問が生き生きと生きるためには、学問の体系の構築作業と一方での、破壊が必要なことはいうまでもない。体系の構築作業は、別の体系の破壊を孕む。固定化は腐朽化につながる。
ついでにいえば臨床の現場で臓腑弁証をそのまま使うことはすくないが、現代の中医学教育は、わかりやすさと教える側の未熟さから臓腑弁証に偏りすぎていることが多い。

暗記、マニュアル重視の限界
近代教育はその主流がマニュアル型、暗記型であり、中医学の縦横無尽の演繹 、弁証はその対局にあるような気がする。中医学もその入門においては膨大な暗記を必要とするが、その臨床応用においては、基礎理論をもとにした展開が臨床の効果を左右する。マニュアル型、暗記型に慣れた思考形式にはなかなかとっつきにくい。常に自分の頭で考えることを要求される。

近代教育、近代の学校制度は産業革命以降の、工業化社会の産物であり、その成立根拠からみても自由な発想の抑圧に働く傾向を持っている。近代の学校制度はすべて隠れたカリキュラムを持っているとよく言われている。授業を受けるためにじっと座りつづけることを、私たちは「教育」や「学習」を受ける前提のように理解しがちだが、じっと座りつづけること自身が、工業化社会にとって最も必要とされる教育、隠れたカリキュラムなのだ。座りつづける教育、学校に行きつづける教育、意味のない命令にも服従する教育が、「良質な労働力」を生み出す。この訓練なしに工業化社会は成立しない(工業化社会とその価値観はすでに危機的状況にあるがここでは言及しない)しかし隠れたカリキュラムはその抑圧性ゆえに、自分の頭で考える創造性を奪いがちだ。国家資本主義的社会主義の中国も近代の学校制度の隠れたカリキュラムから無縁ではなかった。

だから現代において中医学をやろうとする人たちは百家争鳴を基本的作風とすべきだろう。とくに今日の段階では、日本の臨床に即した中医学的鍼灸の研究は、湯液に比べ少ないからやはり、百家争鳴を主、整頓を従でいくべきだろう。混沌をよしとする作風だ。もちろん日本的中医学の一定の共通理解は否定しない。

現代の情報化社会にあっては、社会的諸事件も人々の情志に強く影響し、その移り変わりも速い。この稿を最初に書いた98年9月の段階では(毒入りカレー事件の後、似たような毒物混入事件が多発していた)社会的状況(閉塞感、恐怖、不安)から肝鬱気滞(肝鬱気滞から肝陰虚なり肝血虚となると、胆は肝の気を受けて動くため胆気虚となり、不安が生じる。胆は決断をつかさどる)、また陰陽不和や心気虚や心腎不交の進行の要素はつよいと考えられる(毒入り食品事件のため、過換気症候群の増加が伝えられている)

気候から考えると、98年夏から秋にかけては、大阪より東京のほうが雨が多かったため、湿により経絡つまりやすく肝鬱気滞の要素はより強まっていると推測される。だから厳密にいえば大阪のある治療傾向がそのままでは東京では通用しないだろう。臨床加減が地理的気候的条件から必要になる。

みんなが同じ鍼はうてない
よく臨床家の間で「好きな配穴」とか「好きな経穴」という言葉が使われる。実は同じように鍼をしても、厳密には同じような効果が出る訳ではない。中医学的には、気虚の人は気が漏れやすいといわれている。そうすると陰虚傾向の治療家のうつ鍼は、陰の気がもれやすく陰の気を補い、陽虚傾向の治療家のうつ鍼は、陽の気がもれやすく陽の気を補うという話になる。邵輝中医師の説だ。
だから同じ鍼でも同じ効果はでない(このようなことは近代科学的には、ある性格傾向の人は別の一定の性格傾向の人のもとに集まりやすいといった心理学的側面とその人の持つ磁気とかの純粋に物理学的側面とにわけて理解されるだろう。中医学は混ぜこぜだが実利的には応用しやすい。中医学の特性は臨床に密着した徹底した実利主義といってもいい)その辺から、臨床家の間ではおのずと「好きな配穴」とか「好きな経穴」がきまってくるのだろう。しかし経穴の穴性は厳然としてあるのだから、治療効果をあげるためには、自分の頭で考え、中医学的に演繹 弁証する態度はどうしたって必要になる。

ただ「みんなが同じ鍼はうてない」という主張は、頭のすみにおいておく程度にしてあまり大声では言わないほうがいいだろう。今日の思想状況では、神秘主義の陥穽に陥りやすいからだ。まだまだ不十分な日本における中医学的配穴や穴性の研究の足を引っ張ることにもなりかねない。
現段階では「みんなが同じ鍼はうてない」という主張には中医学的な科学的根拠があること、自分の頭で考え、中医学的に演繹 弁証する態度はどうしたって必要でマニュアル頼みではだめなんだということを胆に命じればいい。

(注釈) ここでいう科学とは近代科学だけを示すものではない。例えば建築物を建てる時、ある地方の宮大工は北側の柱には北斜面で育った木を、南側の柱には南斜面で育った木を使い、木造建築の強度と耐久性を増すという、そういう地域性をもった経験知的なものも科学のひとつと捉える。近代科学は、その得意とする領域で特異的で偏った発展をしてきたにすぎない。計量化数値化しやすいもの、つまり認識しやすいものを認識してきたに過ぎないという近代科学批判から、オルタナティブテクノロジー(代替技術、もうひとつの技術などと呼ばれる)などの運動が生まれている。